フランスのピアニスト、作曲家。
Erik Alfred Leslie Satie。
ヨーロッパにおける20世紀初めの音楽改革を推進した重要人物の一人。
ノルマンディ地方の港町、
オンフルールに生まれたサティは、同地の学校を経て13歳の時にパリ音楽院に入学する(1879年)。しかし、音楽的な才能は認められてはいても、決められたコースに則(のっと)り学ぶことは得意ではなかったようで、在学7年間の評価はかんばしいものではなかった。
まだ学生だった18歳(1884年)、処女作と思われる「アレグロ」を作曲する。しかし作家としての本格的なスタートは、音楽院を飛び出し、軍隊から戻ってきた後の、1886年の頃からである。この年、彼の「神秘主義の時代」の幕開けを飾る「オジーヴ」が作られ、翌87年「
サラバンド」、そして88年に、サティの作品として第1に知られる「
ジムノペディ」と続く。
当時の彼は、パリのボヘミアンが出入りする酒場「黒猫」でピアニストとしての職を得て、シャンソンなどの伴奏をしていた。流行していた中世への懐古趣味や神秘主義にも感化され、彼は「神秘的なサティ」というニックネイムまでもらうようになった。
この傾向は、小説家でもあったジョセファン・ペラダンが教祖となったバラ十字団に加わったことでさらに強まり、1892年に同教団の公認作家として彼は「バラ十字団の鐘」を書き下ろした。
同年、バラ十字団に絶縁状を付きつけて決別。次に作風として、のちに「ユーモラスな時代」と呼ばれる時代区分へと彼は入っていく。
サティはパリの下町の酒場に出入りすることで、ペラダン教祖や長年の友人となるドビュッシーとも知り合い、生涯ただ一人の恋人とされる画家のシュザンヌ・ヴァラドン(ユトリロの母)とも出会った。また、ミュージック・ホールのために書き下ろした歌も60曲ほどあるとされ、その中にはアメリカからのラグ・タイムの流行を取り入れた「
ピカデリー」のような曲もたくさんあった。
サティの独特の作風は、このような20世紀初めという異なった価値観が入り乱れる都会の中で鍛えられていった。
1913年には、「自動記述」を作曲する。「自動記述」は、シュールレアリズム(超芸術主義)の到来を予言したと言われる作品である。
サティがピアノ作品から舞台用の音楽を積極的に手掛けるようになるのも10年代からのことで、特に有名なのは、詩人のジャン・コクトーが台本を、緞帳と衣装をパブロ・ピカソが担当した「パラード」(1917年初演)で、サティはこの舞台のスキャンダラスな成功によって、時代を描き出す有能な作曲家としての名を決定づけた。
サティがのちの「環境音楽」においても先駆者であったことを示すのが、10年代の終わりから晩年(20年代)にかけての、いわゆる「家具の時代」である。この時代の彼は、「
官僚的なソナチネ」「ノクチュルヌ」「最初のメヌエット」を作り(20年作曲の「最初のメヌエット」は、サティにとって最後のピアノ曲)、バレー音楽、声楽曲など多方面で活動している。
特にルネ・クネール監督の映画「幕間」では、音楽を担当するだけではなく、マルセル・デュシャンやマン・レイたちと出演までした。
「幕間」は、バレエ「本日休演」の舞台のために作られた作品だったが、サティはその初演の直後に肝硬変で倒れる。
1925年7月1日、死去。
回顧録では自らを「音響計測者」と呼び、黒服に山高帽子という独特の装いで身を包んだサティ。「ひからびた胎児」など独特の曲名でも知られた人物だった。