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子どもの情景」「幻想小曲集」などで知られる19世紀の作曲家。批評家としてもブラームスを発見するなど、その鋭い音楽的感性を発揮した。
シューマンは1810年6月8日に、
ドイツのツビッカウという町に生まれている。小さい頃は過不足ない家庭環境の中、文学に親しみ、また7歳の頃にはピアノの独学で覚えてしまうほどの早熟な少年だった。
しかしシューマンが15歳の時、姉が自殺。その翌年、今度は父が精神に異常をきたし他界するという事件が起こる。以後シューマンは、このショックを死ぬまで引きずることとなった。
大学へは母の薦めにしたがいライプチヒ大学の法科へ入学している。だが文学と音楽への愛情はますます深まるばかりで、ついにはフリードリヒ・ビークというピアノ教師に正式な音楽教育をうけるまでになった。
この時に出会ったのが、ビークの娘で、当時9歳にもかかわらず天才ピアニストとし注目されていたクララだった。クララとシューマンは、のちに父ビークの大反対を押し切って結ばれることになる。
シューマンが作曲家に専念することに決めたのは、ピアニストの道を探っていた彼が熱心な練習のあまり指に致命的な障害を負ったからだった。これにより彼は、「アベッグ変奏曲」(作品1)をはじめとして、次々に作品を発表するようになった。
ピアノ・ソナタ3曲、「謝肉祭」「幻想小曲集」「子供の情景」「アラベスク」「こどものためのアルバム」、歌曲「ミルテの花」、同じく歌曲「女の愛と生涯」などは、彼がクララとの愛を背景として書き下ろされた名作群である。
シューマンのもう一つの仕事は音楽批評だった。彼は作曲家として活躍するかたわら、若き日のショパンを世に紹介し、シューベルトやバッハなどの「再発見」を熱心に説いたことでも知られている。ブラームスもシューマンによって絶賛され、その名前がドイツに広まることになった。
そして晩年、シューマンが恐れていたことがやってくる。彼もまた、精神に異常をきたしたのだった。それは44歳の時、彼はライン河に投身自殺をはかる。
この時は一命をとりとめたものの、その2年後の1856年、シューマンはこの世を去ってしまう。享年46歳だった。