Peter Ilyich Tchaikovsky
(1840年5月7日〜1893年11月6日)
ロシア
19世紀のロシアを代表する作曲家。1840年5月7日、ロシアのカムスコ・ボトキンスクという田舎町に生まれる。
小さい頃から尋常ではない鋭く繊細な感性の持ち主として周囲を驚かさせるような少年だった。彼は7歳でフランス語による詩を作り、オルゴールを聞いて一人泣いているような子どもだった。
チャイコフスキーが本格的に音楽を学びはじめたは21歳の時からである。彼はその前からロシアの法務省に一等書記官として勤務していたが、1863年、法務省を退職。さらに音楽に専心するようになる。
ペテルブルグ音楽院は主席で卒業した彼は、66年にモスクワ音楽院に教師として招かれる。ロシアで初めての本格的交響曲「交響曲第1番」を発表したのも同じ年のことだった。
チャイコフスキーは音楽院で教鞭を取りながら、幻想序曲「ロミオとジュリエット」「弦楽4重曲第1番」(アンダンテ・カンタービレ)、「ピアノ協奏曲第1番」といった作品を生み出してゆく。
「ピアノ協奏曲第1番」は、名ピアニストとして知られたドイツのハンス・フォン・ビューローによってアメリカのボストンで初演され(1875年)、チャイコフスキーは同国で一躍脚光を浴びることになった。
チャイコフスキーは以後も、「交響曲第4番」「バイオリン協奏曲」「イタリア奇想曲」、オペラ「エフゲニ・オネーギン」、バレエ「眠れる森の美女」、バレエ「くるみ割り人形」、ピアノ曲集「こどものためのアルバム」といった作品を生み出していった。
ちなみに「交響曲第4番」は、チャーコフスキーを14年間にわたって金銭的に支えたパトロン、ナジェージダ・フォン・メック婦人に捧げられた大作である。
1893年、彼にとって最後の大作となる「交響曲第6番(標題交響曲)」が初演となる。
しかしこの作品が舞台にかけられて1週間後の1893年11月6日、チャイコフスキーはコレラに感染し、あっけなく亡くなってしまうのだった。
初演後、「悲愴交響曲」と名づけられたこの作品は、大作家の心にあふれる悲しみを表したものであるとは、よく指摘されることである。