一般には「ハンガリー舞曲」や「
ブラームスの子守歌」「ワルツ」などが有名だが、四つの交響曲ほかバロック〜古典派の流れを引く完成度の高い緻密な作品を多数残した。
10歳に満たない時期からピアノを学んだが、家庭が裕福ではなかったために十代の頃はダンスホールなどで日銭を稼いだこともあった。
ブラームスにとっての画期の一つは、二十歳の時(1853年)に尊敬するシューマン夫妻の前で自作品を演奏したことだった。この時に感激したシューマンは、ブラームスの出現を、神が使わした存在とまで音楽評論誌に書き記したことは有名だ。
1863年、ウィーン・ジングアカデミーの指揮者に就任。1872年、ウィーン楽友協会芸術監督に就任。
1876年、彼が43歳の時、第1交響曲作品68を初演し大きな喝采を得る。この交響曲はベートーヴェンの「第九」にヒケをとらないようにと、21年もの歳月をかけて完成に至ったものだった。
1887年、プロイセンから功労勲章を授与。1889年、レオポルト勲章、ハンブルク名誉市民権を得る。1895年、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ皇帝より(芸術と科学に対する)金の大勲章を与えられる。
1896年、肝臓癌を発病し、その翌年に亡くなる。