別名「歌曲王」とも呼ばれる人物。31歳という短い生涯の中で、多くの傑作、たくさんの作品を残した。
学校を経営する教師の息子として生まれ、父によって教師になるよう育てられた。早くから秀才ぶりを発揮し、特に音楽に関しては際立った才能の輝きを見せた人物だった。
1808年、ウィーンにあった王室礼拝堂のコーラス・メンバー(現在のウィーン少年合唱団)に。すでにこの頃、音楽教師に「(シューベルトは)神様から教えを請うている」とまで言わせるようになる。そして歌曲作りに没頭し、落第までするようになった。
1813年、16歳の時に退学、父の学校の教師(見習)となるが、11歳の頃から始めた作曲活動は止むことなく、歌曲、交響曲、オペラなど、たくさんの作品が生み出された(その中で最も有名な作品の一つが、
ゲーテの詩による「魔王」)。
彼の人生の中で特筆すべきは、何人もの友人や仲間が、作家活動を支えたことである。
シューベルトが父から勘当されてなお、さらに作曲を続行できたのも、自室を貸し出したり有力な人物を彼に紹介するなどし彼の創作の後押しをした人たちがいたからこそだった。
シューベルトは、身長が160センチにも満たず「ビヤ樽」とアダ名されるような人だった。内気な性格だったが、彼の才能はウィーンの音楽好きの間で常に話題となり、「シューベルティアード」という彼だけの作品を演ずるコンサートも催されたほどだった。
しかし、彼の死期は、あっという間にやってくる。
尊敬するベートーヴェンが亡くなったのは1827年。その葬儀に列席したあと彼は仲間たちと乾杯し「最初の1杯はいま亡くなった人のため、2杯目は、その人を追って亡くなる人のために」と言ったという有名な逸話がある。
シューベルトが捧げた「2杯目」は、彼自身へのものだった。
1828年、病に倒れ帰らぬ人に。死因は、梅毒とも腸チフスとも言われている。
彼の亡骸(なきがら)は、友人たちによってベートーヴェンの墓の隣りに埋葬された。
シューベルトが残した作品は700点ほどにも上り、「野ばら」「美しき水車小屋の娘」「冬の旅」「さすらい人幻想曲」ほかたくさんの名作がある。しかしその多くは、彼の存命中には出版されていないというのも彼の特徴で、600以上ある歌曲は187曲だけ、ピアノ・ソナタは21曲中3曲、歌劇に至っては一つも出版されていない。
これも、創作そのものには熱中しても、金儲けや権威を求めることなく「ボヘミアン」的な人生を送った彼の生き方を反映しているのかもしれない。