明治11年(1878年)
梅が枝の手水鉢
假名垣魯文(かながき・ろぶん)
(1829年1月6日〜1894年11月8日)
「戯れ歌」
この歌詞は、文楽や歌舞伎で知られる「ひらかな盛衰記」に登場する名場面をもとに、文学者、仮名垣魯文(かながき・ろぶん)が洒落で作ったのが元唄。二番目以降は、明治記に流行したこの歌が、戯れ歌としてどのように広まったかを示す替え歌で、まずは落語家が高座でうたったものだという。二番の歌詞にある「勸解」とは、明治期の民事裁判の形式の一つで、対立する二者の和解のために裁判官が間に立つという制度である。
メロディは文政期のはやり歌「かんかんのう」の流れを汲んでいる。
元唄にある「梅が枝の…」というくだりだが、「梅が枝」とは、腰元の千鶴が身売りされ傾城(けいせい/遊女)となった時の名前で、彼女が愛する夫・梶原源太のために「無間(むけん)の鐘」になぞらえて手水鉢を必死で叩くと、不思議なことに小判が降ってくるという場面のことである(文楽では四段目「神崎揚屋」)。
ちなみに「無間の鐘」とは、この鐘を叩くと、現世では富を得ることができても、来世では無限地獄に落ちるという故事のこと。舞台では梅が枝が死を覚悟して鉢を叩く場面だが、歌ではユーモラスなイメージに変わっている。