歌人。日本における女性解放運動の先駆者の一人。
大阪は堺の老舗和菓子屋「駿河屋」の三女として生まれる。若い頃から『源氏物語』などの古典や、樋口一葉、尾崎紅葉、幸田露伴ほかの先人たちの作品に触れる。二十歳ごろからは和歌を投稿するようになった。
1900年、後に夫となる
与謝野鉄幹が主宰する『明星』に短歌を発表。翌1901年、最初の歌集『みだれ髪』を発刊。『みだれ髪』は、女性としての情熱、主張をたからかに謳いあげた画期的な作品で、ここに晶子は浪漫派歌人として大きな注目を浴びた。
1904年、「君死にたまうことなかれ」を『明星』に発表する。この歴史的な作品は、兵士として旅順戦線に赴いた弟に向かって謳いかけたもので「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね(天皇様は自ら戦争にお出になることはありませんね)」という日本社会のタブーにまで踏み込んだ。これに対して当時の体制派の文人らは「賊子」「乱臣」といった言葉を遣って晶子を批判したが、彼女は「歌はまことの心を歌うもの」だとして怯むことはなかった(ただし、その後の満州国の成立などでは日本の侵略行為を彼女は認めているから、徹底して反戦、反体制の人物ではなかった)。
1911年、日本では初めてとなる女性文芸誌『青鞜』発刊に参加。
11人の子を持つ母であり、また鉄幹の金銭的な不安定もかかえながら、晶子は精力的な活動を行なった。現代語訳の『源氏物語』や評論活動ほか、歌は10万首にも及ぶという。
女性解放運動としては、平塚らいてうが提唱した「母性中心主義」は、結局のところ旧来の「良妻賢母」の変型でしかないと糾弾、女性は男性にも国家にも頼らず自立すべき存在であると、これも画期的な言説を発表した。