はっとり・りょういち
【作曲】
大阪府 大阪市 出身
明治40年(1907年)10月1日生
平成5年(1993年)1月30日没
昭和の日本歌謡において多大なる業績を遺した作曲家。ジャズなど欧米のモダン・ポップ・ミュージックを日本人的な情緒とブレンドすることに成功した人物。
大阪府大阪市平野区出身。1926年(大正15年3月)、大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団(オーボエ担当)したのがきっかけとなり、エマヌエル・メッテル(ウクライナ出身の亡命音楽家)に見出され、リムスキー・コルサコフの和声を習得する。
31年、タイヘイ・レコード専属作曲家に。
36年、コロムビア・レコードの専属作曲家となる。
翌37年、ジャズ・コーラスを大胆にアレンジした傑作「山寺の和尚さん」(中野忠晴&リズムボーイズ)を発表する。
この年は日中戦争が勃発した年でもあったが(蘆溝橋事件)、昭和歌謡史にとっても曲がり角にあった。すなわち、同年、服部のライバルであった小関裕而が「露営の歌」(勝ってくるぞと勇ましく…)を発表、発売半年で60万枚を売る業界始まって以来の記録を作った。古賀政男はディック・ミネの歌で「人生の並木道」(作詞・佐藤惣之助/泣くな妹よ,妹よ泣くな…)を発表、これも大ヒット。そして服部は淡谷のり子のボーカルで「別れのブルース」(作詞・藤原洸)を世に送った。
だが時代の大物3人のヒット作の中で、「別れのブルース」は、戦時に不適切な退廃的な歌としてレコードは発売禁止の憂き目に遭う。歌謡曲が急速に軍国主義に彩られていった頃の象徴的な出来事だった。
1940年、映画『支那の夜』のテーマ・ソング「蘇州夜曲」(渡辺はま子)。
44年、上海交響楽団を指揮し「夜来香幻想曲」などを発表。
戦後になってからは、エノケン(榎本健一)、「あきれたぼういず」ら当時第一線の芸能人に作品を提供、そして笠置シヅ子の「東京ブギウギ」「買物ブギ」など「ブギもの」で爆発的なブームを作り出し、現代の歌にはリズムがいかに重要であるかを証明した。
69年、紫綬褒章。
93年、85歳で亡くなり、死後、国民栄誉賞を授与される。
息子に作曲家の服部克久。孫に服部隆之、服部有吉(バレエ・ダンサー)が活躍。
- 作品 -
「山寺の和尚さん」
「もしもし亀よ」
「東京ブルース」
「風は海から」
「花の素顔」
「蘇州夜曲」
「あの夜のワルツ」
「銀座カンカン娘」
「青い部屋」
「明るい月夜」
「雨の日暮れ」
「ありがとうさん」
「或る月の夜に」
「あわきあこがれ」
「肩を並べて」
「小鳥売りの歌」
「胸の振子」