明治43年(1910年)
真白き富士の根
(七里ヶ浜の哀歌)
Jeremiah Ingalls
別名「七里ヶ浜の哀歌」。明治43年1月に起こったボート転覆事故の死者を弔うために、三角錫子(みすみ・すずこ)が作詞した。当時は単に「哀歌」という題名だった。
事件は、逗子開成中学の学生12名が悪天候の中、消防士らの止めるのも聞かずに江の島を目指して漕ぎ出したが、結局はボートが転覆し、全員が死亡したというもので、23歳から15歳という彼ら青年の死を悼み、追悼式で鎌倉女学校の生徒によってこの歌が歌われた。三角鈴子は、当時、同女子学校の教諭であり逗子在住だった。
メロディは「夢の外(ほか)」として訳出され、女学校では非常に人気のあったアメリカの賛美歌が用いられている。
「真白き富士の根」は、大正期に入って、当時の「演歌(バイオリン演歌)」の世界でも好んで歌われ、メロディも短調に移されるなどの変化が加えられた。