「
江戸の子守唄」や「
竹田の子守唄」などと並び、日本の子守唄の中で最も知られる1曲。この歌が全国的に広まったのはNHKラジオで、夜の番組の終わりに、小関裕而が3拍子に編曲しなおしたハモンドオルガンの演奏を放送したのがきっかけだった(1950年)。その後この歌は照菊が歌って1953年にヒットするなど、流行歌として様々な人たちに取り上げられてきた。
「五木の子守唄」は、現在の熊本県球磨郡五木村に生まれた守り子娘たちが、歌っていた子守唄(正確には「守り子唄」)である。山深く、耕す土地も限られた五木村の農民たち(
名子小作)は、山林を所有し圧倒的な力を持つ山地主(旦那)の下で働かざるを得ないという重い歴史を背負ってきた。ぎりぎりの生活を強いられた小作の家では、娘たちを出稼ぎにやるしかなかった。五木を離れ彼女たちが出向いたのが山を南に下った
人吉の豊かな商家や農家だった。
五木の娘による「守り子の唄」は、ここ人吉で成立し、歌われはじめたのである。子守りという辛い仕事への嘆き、望郷、あるいは自分の死を、彼女たちはたくさんの即興歌に乗せていった。
人吉には五木だけではなく、各地から守り子娘が奉公にやってきた。その一つが天草
の福連木で、一説にはこの地域の娘たちが持ち込んだ子守唄が「五木の子守唄」の源流ではないかと言われている。人吉に集まった五木や福連木や
八代などの娘たちが、長年たがいに交流する中で歌が生まれ、年季奉公を終えめいめいが故郷へ帰ったとき、彼女たちの心にはそれぞれの子守唄が出来あがっていたのである。それは、哀愁たっぷりでマイナー調の「五木の子守唄」から、明朗な印象の
「球磨の子守唄」に至るまで、とても幅広いバリエイションであった。
「五木の子守唄」は、楽譜に紹介しただけでなく、現在記録されているだけでも70ほどの歌詞がある。楽譜の最初に置いた歌詞「おどま盆ぎり盆ぎり…」は、年季奉公が明けたお盆から先、私はもうこんな場所にはいない、と歌っている。「おどまかんじんかんじん…」の「かんじん」とは「勧進」という字をあてる。「
勧進聖」は、僧侶の姿で物乞いをした流浪の人々のことで、歌詞は、私はまるで物乞いのようなもの、素敵な着物を着ているあの人たちとは大変な違いだ、という意味である。
このような嘆きが、その次に挙げた「私が死んだとしても、泣く(鳴く)のはセミだけだ」という歌詞に発展していく。あるいは「私が死んだら道端に埋めてくれ」という歌詞にも変わった。
名著『日本の子守唄』を書いた松永伍一氏は、その「道ばちやいけろ…」の歌詞にしても空想の産物ではないと言う。彼が最初に五木へ取材に入った数十年前、村に墓らしい墓はほとんどなく、道端に土を盛っただけのようなちっぽけな「墓」をいくつも見かけたと語っている。その「墓」の一つには「花はなんの花、つんつん椿…」にあるように、この土地の花である椿が一輪、挿してあったそうだ。それほどかつての五木には土地がなく、農民は貧しかった(そんな五木地方が、ダムによって水没しようとしていることは、昨今のニュースで知られるところである)。
*写真は、2003年4月4日に埼玉県東松山市で開かれた「五木の子守唄 考」に出演した松永伍一氏。
以下のサイトでは「正調五木の子守唄」を聴くことができる。
五木村オフィシャル・ホーム・ページ:
http://www.vill.itsuki.lg.jp/komoriuta/komoriuta.html