ハイドンと共に古典派としてのスタイルを確立した人物。
ザルツブルグの宮廷のバイオリン奏者の子として生まれる。
彼はすでに3歳の時に、姉(ナンネル)のクラビアを聞いて3度の和音を弾き当てることができたというほどの「神童」だった。5歳の時からはクラビアの即興演奏を始め、この時代の演奏は父(ヨハン・ゲオルグ・レオポルド・モーツァルト)によって
「ナンネルの音楽帖」として残されている。
「神童」という評判は、父や姉らと共に行なったヨーロッパ各地の王族・貴族たちの演奏会でさらに高まることになる。
1762年は、ミュンヘンでバイエルン選帝侯の宮廷で演奏会。続いてウィーンへ赴き、女王マリア・テレージアに招かれて宮廷で演奏会を。共に大評判を取った。
その後、一家は、フランクフルト、パリ、ロンドンと旅を続け、どこへ行っても絶賛されることになった。14歳の時(1770年)、イタリアで行なった演奏会では、時のローマ法王から「黄金拍車の騎士」という名誉勲章をもらうまでになる。
同じ年、ローマ・システィネ教会の秘曲中の秘曲と言われた「ミゼレーレ」を、一度聞いただけで、楽譜に移し替えてしまったという逸話は有名である。
長い旅行からザルツブルグに帰ったモーツァルトは、宮廷のオルガニストとして一度は落ちつくが、音楽に理解を示さないコロレード司祭と折り合わず、ハイドンと知り合ったウィーンや、パリなどで就職活動を進めたが思うにまかせなかった。結局、司祭との関係は決裂し解雇処分となる。
1781年、ウィーンに住むことを決める。
このウィーン時代(彼の人生の後半)に、3大オペラ
「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「魔笛」が生まれ、「ハフナー交響曲」ほかピアノ協奏曲、セレナード、弦楽4重奏曲など彼の代表作の多くが作られている。
30代となったモーツァルトは、作家としてもピアニスト/オルガニストとしても、当時のヨーロッパ音楽において頂点に達した人物となった。しかし反面、経済状態も、小さい頃から病弱だったその体も、急激に思しくなくなっていく。借金の申し入れの手紙が増えていったのも1788年(32歳)からだった。
1791年9月、「魔笛」が大好評のうちに初演を終える。同年11月、モーツァルトは病の床に就く。同年12月5日、帰らぬ人に。
35年という、短い人生だった。