ヨーロッパ・クラシック音楽を代表する大作曲家。
有名な、耳が聞えなくなるという音楽家にとって重大な病ほか、様々な苦難を押しのけるように歴史に残る名作を残した人物である。
ベートーヴェンは
ドイツのボンに生まれている。父は宮廷に仕えるテノール歌手だったが、彼はアルコール依存症であり、そのせいもあってか人格的に問題があったとされる。 父は飲んだくれ、そして裕福とはいえない一家の精神的な支えは母のマリア・マグダレーナであった。
他の大作家と同じように、ベートーヴェンの才能の開花は早かった。しかし4歳の時からピアノを教えられ、6歳の時にはケルンで演奏会を開いたベートーヴェンではあったが、正規の学校教育は11歳までで、正式な音楽教育はこの11歳当時から受けるという状態だった。14歳頃からの彼はオルガン奏者として家計を助けてもいる。
16歳の時、
モーツァルトに教えを受ける。
17歳の時、母が亡くなる。彼は一家の大黒柱として働かなくてはならない立場となる。
気難しかったとされるベートーヴェンの性格は、このような家庭環境が大きく反映されているという説がある。
22歳の時、ウィーンでハイドンに教えを受ける。
ウィーンでの彼は、その抜きん出た才能をいかんなく発揮し、貴族社会に多くのパトロン、金銭的な支援者を見出していった。
しかし、耳の病は28歳頃から彼に重い陰を落とし、しだいに深刻化していった。このような悩みの中で作られたというが初期を代表するピアノ・ソナタ「悲愴」(1799年)である。
1801年、ピアノを教えていた伯爵令嬢(ジュリエッタ・グイチアルディ)に捧げたピアノ・ソナタ「
月光」が完成。
1804年、ナポレオンの偉業をきっかけとした交響曲「英雄」が完成。
30代のベートーヴェンは、自殺すら考えた病と闘いながら、音楽家として極めて高い評価を受け「古典派」の中心人物として揺るぎ無い地位に就くまでになった。
ベートーヴェンの「栄光と苦悩」という関係は、これで止むことはなかった。
一時は心酔したナポレオンが掲げた理想の破綻に加え、ベートーヴェンの経済的基盤の揺らぎ、弟の死亡、ベートーヴェンが実子として引き取った甥っ子の自殺未遂と、次々にその身に降りかかる不幸。それを乗り越えて、「交響曲第5番 運命」「交響曲第6番 田園」「交響曲第9番」といった大作、あるいは「
エリーゼのために」などの名作を作り続けたというのは、ケタ外れの創作意欲であり才能であった。
1827年、56歳で死去。
「諸君、喝采を。喜劇は終った」という最期の言葉も有名。