大正10年12月(1921年)
『小学女生』
赤い靴
大正11年(1922年)8月作曲
雨情・長世コンビによる名作の一つ。小さな女の子が外国人に連れられて行ったというこのミステリアスな童謡は、発表以来、さまざまな憶測が飛び交ったが、もともとは雨情の不遇時代、ある北海道開拓民と知り合ったことが作詞の発端とされている。
それは、以下のようなことだったという。
雨情は童謡作家として名をなす前は北海道にいたことがある。同地の北鳴新報に勤めていた時、彼は鈴木志郎なる人物と声をかわすようになる。鈴木は、北海道の開墾地へ働きに来たものの失敗、そののち北鳴新報に職を得た人物だった。
鈴木には妻がいた。その妻(岩崎かよ)は再婚で、鈴木と結婚する時、彼女は前夫との間に生まれた子ども「岩崎きみ」を、アメリカ人宣教師チャールズ・ヒューエット夫妻の養女にしたという。岩崎きみは、明治35年に静岡で生まれている。宣教師にもらわれたのはきみが3歳の時だった。それほどに開墾地での生活は苦しかったのである。
開墾をあきらめた鈴木志郎夫妻が札幌に出たのは明治40年のことだった。この時、夫妻の前に現われたのが野口雨情だった(鈴木は41年には小樽日報で石川啄木と出会ってもいる)。生きるためとはいえ娘を手放した夫妻の事情は、その出会いの直後、生後7日で娘を失うことになる雨情自身の悲しみと絡み合い、「赤い靴」が、そして
「シャボン玉」が生まれた。
しかしきみちゃんは、歌にあるように外国人に連れら海を渡ったわけではなかった。親たちは宣教師と一緒にアメリカへ旅立ったとばかり思っていたようだが、実は彼女は結核を患い東京は麻布にあった鳥居坂教会の孤児院で、一人、闘病生活を送っていたのだった。それは彼女が6歳の時から9歳の、彼女がひっそりと息を引き取るまでのことである。