明治以降の日本にあって、主に小中学校などの音楽教育のために作られた歌のこと。
「唱歌」は、それ以前までは、邦楽における笛や琴などのメロディを声に置き換えたものを指し(いわゆる「口三味線」)、発音も「syouga」であった。
現在にいう唱歌がその進む道を明確にしたのは、1879(明治12)年10月、学校教材用の歌(唱歌)の作成・編さんと教師の養成機関として「音楽取調掛(おんがくとりしらべかかり)」が文部省内に設置されてからである。
初代所長となった
伊沢修二は、アメリカ留学時代、日本が文化的に遅れているとの判断に立った人物で、情操教育としての音楽を国家レベルで国民に教えなくてはならないという理念の持ち主だった。
伊沢は、アメリカから自分の先生であったルーサー・W・メイソンを招き、さっそく新しい日本のための歌集の編さんに取りかかる。
その第1号が、1881(明治14)年に出来あがった、日本初の官製唱歌集『
小学唱歌集』である。ちなみに『
小学唱歌集』に先立つ1878年には、東京女子師範学校が幼稚園児の教育用に宮内庁雅楽課に歌の作成を依頼したことがあり、これが国内の音楽家が作った最初の子ども向けソング・テキストだとされている(当時は出版はされていない)。
『
小学唱歌集』の中に選ばれた歌の多くは、欧米で広く親しまれている歌〜賛美歌を焼き直したものだった。
「蛍の光」「むすんでひらいて」「霞か雲か」「庭の千草」ほか、現在では日本の歌と思われている唱歌の代表的な作品の故郷は、スコットランドやアイルランドなどである。
『
小学唱歌集』の登場以降、『
幼稚園唱歌集』『
中等唱歌集』など様々な教育用の歌集が発刊されてゆく。
唱歌は、その成立過程からいって、国家体制と不可分の仲にあった。日清・日露戦争の時代から太平洋戦争で日本が敗北するまで、唱歌にはたくさんの国威高揚歌や
「君が代」「一月一日」「天長節」といった「儀式唱歌」があるのはそのためで、当時の子どもたちが軍国主義、国家主義に染まったその原因のいったんは唱歌にあった。
もちろん唱歌には、軍歌的なイカツいムードではない優しい言葉でつづられた歌もたくさん作られている。「言文一致」の唱歌を提唱した
田村虎蔵の
「はなさかじじい」や
瀧廉太郎の「鳩ぽっぽ」などがその代表例といえるだろう。
これら「言文一致」の歌は、軍国主義の歌が一掃された戦後に、唱歌のイメージを象徴するものとなっていった(例
「春の小川」)。
唱歌を語る時によく登場する「文部省唱歌」とは、1902(明治35)年に起こった教科書汚職事件に端をはっする言葉である。
この汚職事件をきっかけに、政府は法令を改正し小学校の教科書を国定制へと変更する方針をかためた。この流れに乗って作られたのが、1910(明治43)年の『尋常小学校読本唱歌』で、同書の編集・発行は「文部省」とクレジットされていた(著作権も同省が有する)。
「文部省唱歌」とは、このような音楽教科書のあり方から、一般化していった言葉である。